55号 巻頭言

サンフランシスコ平和条約発効70年に際して

1952年 4月28日、サンフランシスコ平和条約(サ条約)発効 のその日は、日本にとって主権を回復した記念すべき日というのが一般的な認識である。しかし、多くの人はその日が在日朝鮮人の処遇において大きな転換点となった 日であることは全く知らないであろう。

その日、在日朝鮮人は、日本国籍を「喪失」したというのが日本政府の立場である。

それによって、「在日朝鮮人は日本国籍者だから 日本の学校に行け」との「理屈」で1948・49年の相次ぐ閉鎖措置により民族学校閉鎖を進めた日本政府は、今度は、「事情の許す範囲で従前どおり在日朝鮮人を引き受けてもいいが日本の公立学校で引き受ける義務はない」と手のひらを返した。一方、在日朝鮮人が閉鎖令の嵐にも屈することなく各地で再建を進めた民族学校に対しては、学校として当然受けるべき制度的保障の対象の枠外に放置した。

また、「外国人登録令」は「外国人登録法」となるとともに指紋押捺制度が盛り込まれることとなり、生活保護もその対象者である国民ではなくなったということで「権利」としての保障された受給ではなく、あくまで「恩恵」としての受給となった。その後も国民年金制度発足時(1959年)に、その対象を日本国籍者のみにするという国籍条項を設けるなど社会保障の多くの分野で国籍の壁を設けた。またサ条約発効後に設けられた数々の戦傷者、戦没者遺族への援護制度においても同様の壁を設けた。

当時の圧倒的多数の朝鮮人は文字通り「解放民族」としての扱いを求めていた。当然のことながら日本政府はこの要求に応えるべきであった。「日本国籍を喪失した」とする在日朝鮮人に対し、日本国民でなくとも基本的人権を保障するという観点に立ち、その長期滞在により生活の本拠地が日本となっているといった実態、それに至った歴史的経緯に鑑み、社会保障をはじめ、あらゆる分野において差別することなく日本人と同等に扱うのはもちろん、日本帝国主義による植民地支配の被害者に対する原状回復義務に基づいて、喪失させられた言葉や文化の取得を積極的に保障していくといった措置がとられるべきであったことは言うまでもない。

しかし、日本政府はサ条約以降、まさにその真逆の対応をしたのである。

その後、在日朝鮮人やこころある日本の市民らの闘い、また、1979年の国際人権規約(社会権規約、自由権規約)や1981年の難民保護条約への批准もあり、社会保障における国籍条項の多くは無くなるなど数々の前進があった。

しかしながら、未だ一定年齢以上の障害者や高齢者が制度的無年金状態に置かれており、生活保護受給も「権利」ではなく「恩恵」にとどまっているなど未解決のものも少なくない。

とりわけ民族教育への差別は「高校無償化」・「幼保無償化」問題、またコロナ禍で実施された「学生支援緊急給付金」からの朝鮮大学校除外など 、最近のものだけを挙げても枚挙にいとまがない。日本の学校においても、いわゆるニューカマーへの日本語教育は論じられても民族教育の保障などは論じられない。日本の学校で民族教育を保障しないことと、民族教育を保障する朝鮮学校を各種支援制度から除外していくことは、戦後も変わらず続く同化政策の両輪である。

日本政府は、国籍問題についてはサ条約に則り、原状回復の一環だという「理屈」で国籍の一律的喪失措置をとっておきながら、喪失させられた言葉や文化の原状回復についてはひどく冷淡な態度をとり続けているのである。

このように、植民地支配期における皇民化政策と呼ばれた同化政策は、植民地を正当化するために日本国民に植え付けた朝鮮等への優越感、差別意識とともに、現在に至るまで連綿と引き継がれている。植民地を手放さざるを得なくなった敗戦後の日本においても、植民地支配を正当化し、支えた「思想」・「政策」は、敗戦や主権回復という歴史の節目節目においても清算されることのないまま、継続する植民地主義として、在日朝鮮人をはじめとする民族的マイノリティーを抑圧し、その人権を踏みにじり、その尊厳を傷つけ続けているのである。

かつては植民地支配正当化のための偏見まで政策的に植え付けられ、今はインターネット上での差別的書き込み、フェイクニュースに晒されながらも、在日朝鮮人やその置 かれてきた状況について実際にはほとんど何も知らないでいるこの日本社会で生きる多くの人々に事実をどう伝えていくかが非常に重要である。『人権と生活』 もその一翼を担っていきたい。