覚悟をあらたに、日本の植民地支配責任を問い続けよう
「え、なぜね。謝りもせんと逝きよって」
解放から80年を迎える今年、沖縄で日本軍の性奴隷を強いられた裴奉奇さんが裕仁天皇死去に際しこぼしたという言葉が改めて想起される。
日本政府は今日にいたるまで、植民地支配の過程で行った朝鮮人民に対する非道の限りを尽くした加害責任への真摯な謝罪どころか、加害の歴史への真摯な向き合いにもとづいた真相究明・賠償・教育・再発防止などの措置をネグレクトしてきた。
植民地支配責任を問う世界の潮流は、冷戦の終結を機とし、日本軍性奴隷制サバイバーをはじめとした重大な人権侵害の被害者たちとその子孫たちが過去の加害事実の承認や謝罪などを求めて声をあげたことによって1990年代に勢いを増した。そして2001年のダーバン世界会議で植民地支配や奴隷制の責任が国の枠をこえて公的に問われて以降、世界各地で徐々にではあるが現代のレイシズムの源泉たる植民地支配の責任や加害の歴史に真摯に向き合う動きがみられるようになり、人権の尊重が国際社会共通の規範としてより共有されるようにもなった。
日本でもその時分、日本軍性奴隷制の強制性を認めた1993年の「河野談話」や、「植民地支配と侵略によって」とりわけアジア諸国の人々に対して与えた多大の損害と苦痛に対し「心からのお詫びの気持ち」を表明した1995年の「村山談話」が発出され、それらを土台とし、世界の流れに沿っていくことが期待された。しかしながら日本は植民地支配の加害の歴史否定という逆流にのまれてしまった。しかも、その逆流を先導してきたのは為政者たちだ。第一次安倍内閣による「軍や官憲によ るいわゆる強制連行を直接示すような記述」が見当たら ないとした「河野談話」を事実上否認する答弁書の閣議決 定(2007年)、日本の朝鮮植民地支配について触れもせず加害責任を無視しようとする態度を鮮明にした「安倍談話」(2015年)、菅政権下における歴史教科書からの「従軍」削除と「慰安婦」記載が適切との閣議決定(2021年)…こうした動きに相乗りした地方政府によって、差別と人権をテーマとしていた大阪人権博物館は閉館に追いやられ、「群馬の森 朝鮮人犠牲者追悼碑」は強制撤去されてしまった。さらには歴史否定の動きを煽る保守・右派メディアによる偏重情報をもとにネット上を這いまわっている偏見やデマが、在日朝鮮人の命と安全を著しく脅かすヘイトクライムをも引き起こしている。解放から80年、惨憺たる現状が、目の前にある。
しかし、だからこそ、思い起こそう。日本による植民地支配を起因として存在する在日朝鮮人が、その存在意義をかけて解放直後から、解放されたはずの朝鮮人に対し植民地主義的な政策でのぞむ日本政府に抵抗し続けてきたことを。大日本帝国主義崩壊直後から朝連などを中心に在日朝鮮人のなかで取り組まれてきた植民地支配責任を問う試み(本誌48号鄭栄桓論考参照のこと)から今日まで、在日朝鮮人による日本の加害責任を真正面から問い質す闘いが、日本各地で多彩な形で受け継がれてきたことを。
沖縄の地で朝鮮人としての誇りを持って共に生きていこうと日本帝国主義に踏みにじられた裴奉奇さんを支え続けた在日朝鮮人活動家たちの寄り添い、祐天寺に安置された「浮島丸事件」犠牲者を含む朝鮮人の遺骨700体の故国への奉還実現にむけた活動、継続する植民地主義が生み出した構造的問題から朝鮮学校に対する差別を考える在日朝鮮人と日本人学生のあゆみ、いまも冷たい海底に眠る朝鮮人労働者136人をはじめとする長生炭鉱水没事故犠牲者に光を当て救い出そうとする取り組み、日本軍性奴隷制サバイバーたちの生きざまと日本政府への怨念と真の解放への願いを日本の首都のどまんなかから世界に轟かせた在日朝鮮人青年たちのアクション。
解放から80年間、歴史的不正義の是正を求め、日本政府が葬ろうとしている加害の事実を丹念に掘り起こし、日本の植民地支配責任を追及し続けてきた在日朝鮮人の闘いの一つひとつも、植民地主義の克服を希求する世界の潮流に少なからぬ影響をあたえてきたということに、矜持をもとう。
そして今一度、植民地主義が克服されぬまま排外主義が跋扈する日本の現状を前に、覚悟を強くもとう。凄惨な過去が繰り返されないために、そして次世代の安寧のために立ち上がった裴奉奇さんをはじめとする歴史の証人たちの意志を継ぎ、日本の朝鮮植民地支配にともなう責任と継続する植民地主義の責任を正面から問い続けていくのは、他ならぬ今を生きる私たちでなければならないという覚悟を。