54号 巻頭言

在日朝鮮人の司法闘争の意義を振り返って

 「在日朝鮮人の歴史は権利闘争の歴史である」というフレーズは、これまで何度も繰り返されてきたものである。事実、わたしたち在日朝鮮人の勝ち取ってきた権利は、なにひとつ自明に「与えられてきた」ものはなく、闘争を通じて自ら勝ち取ってきたものばかりである。

 解放後も、日本政府は植民地支配責任をなんら果たすことなく、むしろ日本で生活を続けた在日朝鮮人は「法の下」にあらゆる差別を受けてきた。しかし、それを決して座視せず、権利を勝ち取るためにあらゆる闘争を繰り広げてきた歴史がある。

 とりわけ、司法闘争はマイノリティが公にその差別を問い、権利のために闘うことができる数少ない手段のひとつであり、在日朝鮮人当事者はこれまで数多くの裁判を闘ってきた。     

 そして、在日朝鮮人に対する就職差別に初めて真正面から闘った「日立就職差別裁判」(1974年横浜地裁判決)や入居差別と闘った裁判など、画期的な判決を勝ち取ってきた。

 もちろん司法もまた「日本」という制度の一部でもあり、こうした「勝利」よりも数多くの不当判決を突き付けられてきたことから、日本の司法に対する不信や失望は大きい。しかし、その闘争の中で積み上げてきた議論の意義の大きさも計り知れない。全国5か所で闘われた「朝鮮高校無償化裁判」は、結果的には全地域が敗訴となったが、大阪地裁においては、朝鮮学校と民族団体である朝鮮総聯との歴史的関わりを踏まえ、民族教育の重要な意義を認めた画期的な判決を勝ち取った。また、司法闘争を通じて朝鮮学校への理解と支援の輪は地域・国を超えた拡がりをみせている。

 一方、在日朝鮮人に衝撃を与えた「京都朝鮮学校襲撃事件」(2009年)は、いまもって記憶に新しいが、現在裁判係属中である京都府宇治市のウトロ地区における放火事件(2021年)において、被告は「在日コリアンに恐怖を与える狙いがあった」と、その差別的動機を認めている。朝鮮学校補助金停止問題に端を発する「弁護士大量懲戒請求事件」(2017年~)や右翼活動家による「総聯中央会館銃撃事件」(2018年)など、現代日本において頻発している差別・排外主義の発露であるヘイトクライムは、いまなお私たち在日朝鮮人の日常生活を脅かす深刻な問題である。

 「京都朝鮮学校襲撃事件裁判」において、民事訴訟では司法が初めて人種差別撤廃条約上の人種差別に該当すると認定し、そのことが損害賠償額にも反映されるという画期的な判決(2013年京都地裁判決)が出された。しかし、刑事裁判においては、いまだ量刑判断において差別的動機を根拠に加重されたケースはほとんどないに等しく、「ウトロ放火事件裁判」においてどのような判断が示されるのか、注目されている。

 このようにみるとき、在日朝鮮人の権利をめぐる裁判は、すなわち日本の根底に流れる差別・排外主義、植民地主義と闘う裁判であり、まさに「日本の社会を映す鏡」ということができるだろう。

 これまで闘われてきた、また現在も闘われている司法闘争の意義を改めて確認しながら、あるべき社会の構築のために、差別・排外主義に屈せず、日本の植民地主義に終止符を打つべく闘っていきたい。