どのような状況にあっても、あらゆる人の権利が保障される社会を
「(マスク)1箱が欲しいのではない。子どもの命を平等に扱ってほしい」
2020年3月、新型コロナウイルスの感染防止策として市内の幼稚園や保育所への備蓄マスクの配布を開始したさいたま市は、当初、同市内にある埼玉朝鮮初中級学校幼稚部をマスクの配布対象から除外していた。この問題を受けて、同幼稚部の園長は冒頭のように語った。
市は、朝鮮学校関係者や本協会など多数の個人・団体による抗議の声を受け、結果的には朝鮮学校も配布対象に含めた。しかし、市はあくまで差別的な意図はなかったと主張し、当初の除外措置に対する謝罪を求める多くの市民の声にも応じなかった。
このときに市が自らの措置を正当化する根拠として持ち出したのは、朝鮮学校は「幼保無償化」制度の対象ともなっておらず、市が指導監督や指導監査を行う対象施設ではないという、マスク配布の目的であるウイルスの感染拡大防止とはなんら関係のないものだった。
市によるこのたびの措置は、平常時における行政による差別が、いとも簡単に緊急時における「命の差別」へと繋がるという恐ろしい現実を私たちに示している。
振り返れば2013年、東京・町田市の教育委員会が、市内の学校に通う児童への防犯ブザーの配布対象から朝鮮学校を排除する決定を行ったのも(抗議の声を受けて後に撤回されたが学校への正式な謝罪はなされなかった)、「高校無償化」制度からの朝鮮学校除外という日本政府による差別に便乗したものだったといえる。
言うまでもなく、特定の集団に属する人びとの健康や生命を、平常時の差別と結びつけて軽視することは、人権と人道の観点から絶対に許されてはならないことだ。にもかかわらず、とりわけ行政がそのような措置をとることは、市井の人びとに「朝鮮人には何をしてもよい」といわんばかりの強力なメッセージを発し、朝鮮学校や在日朝鮮人への差別を煽動することになる。
実際、さいたま市の問題に際しては「文句があるならお帰り頂ければ」「マスクが欲しいなら拉致被害者と交換しろ」「朝鮮保育園にマスクを支給すると本国へ送り軍事転用されるから支給反対」などのヘイトスピーチやデマがネット上に溢れた。
このような事態を引き起こしておきながら、「命の差別」を行った事実を頑なに認めず、当事者への謝罪すらまともに行っていないさいたま市、またこうした差別や草の根のヘイトスピーチを傍観・放置し、朝鮮学校への制度的差別を改めない日本政府の態度を改めて強く批判したい。
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このたびの新型コロナウイルスの脅威は、朝鮮学校や在日朝鮮人のみならず、社会的に周縁化されている人びとの権利が平常時から十全に保障されていない状況を改めて鮮明にあぶり出している。
例えば入管施設に収容されている外国人住民は、普段から劣悪な居住環境や医療状況に置かれているため、ウイルス感染のハイリスクにさらされている。仮に収容を免れたとしても、制度的に就労が認められていないがゆえの生活困窮や当局による摘発への恐れから、健康に不安があっても医療機関へのアクセスが叶わない人びとも多いだろう。
また、安価な労働力確保策として利用されている技能実習制度のもとで働く外国人技能実習生の多くも、多額の借金や長時間労働、賃金未払い、ハラスメントなどの過酷な労働環境ゆえに日常的に健康を保ちにくく、感染のリスクが高いといえる。そのうえ、多くはコロナ禍の影響で真っ先に解雇の対象となり、生活の見通しがつかない状況に追いやられている。
こうした状況から見えてくるのは、ウイルスはその人の国籍や民族などの属性を問わず平等に感染するが、ウイルスに感染するリスクやウイルスの弊害は、その人の属性によって不平等にもたらされるという現実だ。「ウイルスとの戦い」が声高に叫ばれる今、私たちが真に立ち向かうべきは、こうした不平等な状況をつくり出している公権力や、そのような社会を構成する私たち一人ひとりの心に潜む他者への偏見や差別ではないだろうか。
どのような状況にあっても、あらゆる人の権利が保障される社会を目指し、今後も声を上げていきたい。