平成15年(ワ)第28577号 土地明渡等請求事件                  

原 告  東京都

被 告  学校法人東京朝鮮学園

 

         第1準備書面

 

                     

                   2004(平成16)年4月16日

 

 東京地方裁判所民事第15部 御中

 

 

             被告訴訟代理人弁護士  新 美   隆

 

                

             同           師 岡 康 子

 

 

             同           張  學  

 

 

             同           金  舜  植





               <目次>

第一 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
第二 請求の原因に対する認否・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
第三 被告の主張
 一 枝川地区形成の歴史的経緯
  1 在日朝鮮人の歴史について・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
  2 枝川地区朝鮮人集落の成立について・・・・・・・・・・・・・・3
 二 朝鮮学校の歴史
  1 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
  2 文部省による敵視政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
  3 朝鮮学校に対する処遇の改善・・・・・・・・・・・・・・・・・11
  4 国連条約委員会の勧告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
  5 日本弁護士連合会の勧告及び調査報告・・・・・・・・・・・・・15
  6 小括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
 三 東京朝鮮第二初級学校の沿革及び同校校地使用の経緯
  1 「隣保館」において国語(朝鮮語)講習所を開設・・・・・・・・・・17
  2 都立第二朝鮮人小学校・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
  3 被告の運営する「東京朝鮮第二初級学校」として再出発・・・・・・18
  4 「隣保館」の借り受け・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
  5 原被告間の東京朝鮮第二初級学校用地に関する契約締結の経緯・・18
  6 契約期間満了に伴う交渉経過・・・・・・・・・・・・・・・・・22
 四 無名契約たる「朝鮮学校用地無償貸付契約」に基づく占有権原について
  1 1972年4月26日付契約の法的性質の解釈問題について・・・27
  2 本件契約を成立させた客観的かつ特徴的事情・・・・・・・・・・30
  3 1972年の本件契約の法的性質をどのように解すべきか・・・・36
  4 本件契約は無名契約たる「朝鮮学校用地無償貸付契約」?BR>    解すべきであり、民法の使用貸借契約ではない・・・・・・・・・・41
 五 使用貸借契約に基づく占有権原・・・・・・・・・・・・・・・・・42
 六 信義則違反・権利濫用・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47




第一 はじめに

原告が被告に対して,明渡しを請求する本件各土地は,1945(昭和20)年12月枝川地区に居住する在日朝鮮人によって,「国語(朝鮮語)講習所」である深川初等学園が開設されて以来,今日まで一貫して在日朝鮮人にとっての民族教育の場であった。

   今般提起された本訴訟の意図するものは,歴史的事実を無視するのみか,すでに国際社会において確立された民族教育を受ける権利保障規範に対する地方自治体による真っ向からの挑戦であり,時代逆行も甚だしい悪意に満ちたものであり,法解釈の原則をゆがめたものと言うほかなく,また極めて政治的なものである。

   原告が,現に朝鮮学校の用地として使用されている土地の明渡を請求するという異常な訴訟を敢えて提起した法的根拠については,以下に歴史的事実および原告と被告との関係を踏まえて主張するが,一言で言えば,合理性も実質もなく,冷静かつ合理的な検討に到底耐え得ないものである。事実に即して法解釈がなされるものであり,法の条文から事実を切り刻む如き論法は,悪しき概念法学の典型であり,かつ危険なものというべきである。

   本件提訴の契機としては,一部の者の監査請求に基づく監査結果が認められるが,かような安易かつ迎合的な監査は監査の意義を自ら貶めるものであり,この監査結果に安易に同調して原告は本訴を提起したのである。巨大な原告の組織中に本件のような無謀な提訴を諫め阻止しようとした者がいなかったのであろうか。多くの法曹をかかえ有識の人々を擁するはずの原告において,その衝にある人々が本訴提起を容認したとすれば,今回の事態はまことに寒心に耐えない。本訴訟は民族教育を害する意図によって提起されたものであり,まさしく訴権の濫用にも等しく,また,果敢に政府の方針に抵抗し,朝鮮学校に対する支援策を講じてきた先達の業績を無にするものである。

   民族教育は,かつては抑圧の口実であったが,すでに価値観の転換がなされて久しく,民族教育をいかに在日朝鮮人の子どもたちに行っていくか,民族教育を日本の中で権利としていかに保障していくかが,日本の将来のあり方にかかわっていることを銘じて,本件訴訟を通じてその意味を明らかにしていきたい。将来を見据えた当裁判所の公平かつ適正な判断を衷心より期待する。

 

第二 請求の原因に対する認否

 一 請求原因1〔原告〕について

1(1)は認める。

2(2)は認める。

 二 請求原因2〔被告〕について

1(1)は認める。

2(2)は認める。

 三 請求原因3〔原告の土地所有〕について

1(1)は認める。

2(2)は認める。

 四 請求原因4〔被告の土地占有〕について

1(1)は土地を占有していることは認める。

2(2)は認める。

 五 請求原因5〔被告占有の無権原〕について

否認する。被告は,後述するように,本件各土地について占有権原を有している。

 六 請求原因6〔本件各土地の使用料相当額〕について

1(1)は否認ないし争う。

2(2)は否認ないし争う。

 七 請求原因7〔被告の不当利得〕について

否認ないし争う。

第三 被告の主張

 一 枝川地区形成の歴史的経緯(乙34号証)

  1 在日朝鮮人の歴史について

()1905(明治38)年第二次日韓協約=乙巳保護条約によって朝鮮の外交権は剥奪された。日本は1910(明治43)年に「併合条約」を強制し,朝鮮を完全な植民地としたうえで,朝鮮半島からあらゆる人的・物的資源を略奪した。

在日朝鮮人の歴史は,日本の朝鮮侵略及び植民地政策のもと,土地や生活の糧を奪われて日本への渡航を余儀なくされ,あるいは強制的に日本に連行されて来たことから始まる。

このような朝鮮植民地支配のもとで,多数の朝鮮人が日本に渡来し,その数は東京府内だけでも1924(大正13)年頃には1万人を突破しており,以降毎年3000人〜5000人規模で増加していった。

()江東地区内では,大勢の朝鮮人労働者が浜園(現在の塩浜)の埋め立てや荷揚げ,河川や道路の工事,さらには各種工場で主に雑役夫として働いていた。

1930年代後半には,江東地区に100名以上の朝鮮人集団居住地が塩崎,浜園,白河,千田など9ヶ所に形成され,住民の数は計9000余名にのぼっていた。その多くは岸辺や湿地などの未利用地で,はじめは数軒のバラックと呼ばれる粗末な掘立小屋を建てて居住していたが,やがて大きな集落を形成するまでに至った。

このような集落の形成は,朝鮮人が民族差別によって低賃金を強いられた上,賃貸住居等への入居を拒絶された等の事情によるものであった。

2 枝川地区朝鮮人集落の成立について

()塩崎や浜園には朝鮮人が居住するバラックが密集し,193 0(昭和5)年末頃にはバラックの住人は1000名を超えていた。ところが,1936(昭和11)年7月31日ベルリンで開かれていたIOC総会で第12回オリンピックの開催地が東京と決定され,万国博覧会の開催とあわせて,これらの会場や関連施設用地として塩崎,浜園が指定されたため,付近に建つバラックが問題視された。

オリンピック開催が決定したことで,バラック撤去の動きが一挙に具体化した。東京市は,さらに沖合いの埋立地である枝川に「簡易住宅」を建て,住民を強制移住させようとした。その後,日本は中国大陸で侵略戦争の泥沼の道を突き進み,オリンピックや万国博覧会は開催直前の1938(昭和13)年になって中止(開催地返上)に追い込まれたが,バラック撤去計画はそのまま強行され,住民らは,1941(昭和16)年,枝川に強制的に移住させられた。

(2)当時の枝川は埋め立てを終えただけの未整備の荒れ地で,ゴミ焼却場と消毒所の他には建物一つないゴミ捨て場であった。枝川への移住はいわば「孤島」への「強制収容」であった。こうして枝川に,ある日忽然と1000名を超える朝鮮人集落が出現したのである。

東京市広報によれば「簡易住宅」は1941(昭和16)年7月1日より事業を開始したとされ,木造瓦葺き二階建て18棟,平屋5棟の計230戸であった。「簡易住宅」は,玄関も台所もトイレもお風呂もない,工事用現場バラックのような粗末な建物であった。すぐそばにゴミ焼却場があったことから,ハエやゴミ焼却場から吹きよせる悪臭に悩まされ,排水施設が悪く雨が降れば土地はぬかるみ,たびたびの浸水に見舞われるなど,当時の生活環境は最悪であった。

(3)「簡易住宅」管理の実?SPAN lang="EN-US">

原告は,終戦までの僅かな期間を除き,家賃等の徴収を行っていなかったばかりか,住宅の修理,改修その他管理者として本来なすべき行為も一切せず放置した。

そのため,住民らは1945(昭和20)年の日本の敗戦直後に,「枝川町住宅管理委員会」を設置し,その後は住民らによる自主的な管理が行われた。

1949(昭和24)年のキティ台風により地域一帯が大きな被害を受けた際にも,住民らが原告に対し再三にわたり家屋の補修等を要請したが,原告が何らの対策も講じなかったため,住民が自費で補修等を行った。

また,住宅の補修,下水道や都市ガスの引き込み,道路の整備など居住環境の整備・改善などすべてを住民らが自力で解決してきた。

さらに,木造建ての極めて粗末な建物であった「簡易住宅」が老朽化し,また手狭になったことから,終戦後,住民らは,「簡易住宅」を各自が増・改築等した。

その結果,住居の殆どが建て替えられ,1960年代には以前の「簡易住宅」としての原形はなくなっていた。

 

二 朝鮮学校の歴史(乙35,乙36,乙37号証)

1 はじめに

1945(昭和20)年8月,朝鮮が解放されるや在日朝鮮人は朝鮮学校を設け,民族教育を始めた。それから今日に至る半世紀の歴史は苦難の歴史であった。苦難に挫けず,朝鮮学校を維持しつづけてきたのは,在日朝鮮人の民族教育にかける情熱であった。

朝鮮学校の苦難はもっぱら日本政府の姿勢に起因する。朝鮮学校に対するこれまでの日本政府の姿勢は,1970(昭和45)年前後を境目として,二つに分けることができる。

その第一期は,文部省(現在の文部科学省)が朝鮮学校の存在を否定し,これを敵視した時代である。

その第二期は,在日朝鮮人教育にかかわる市民運動が定着し,文部省の差別政策を押しきって 朝鮮学校を学校として認め,そのように処遇する動きが社会的に広まった時代である。

2 文部省による敵視政策

()1945(昭和20)年8月,日本の敗戦により,朝鮮は解放された。日本の朝鮮に対する植民地政策の最も残酷な罪悪の一つは,「皇国臣民化教育」(同化教育)を強力に推し進めることにより,朝鮮の未来である朝鮮人子弟を徹底的に日本人化したことである。その結果,朝鮮人子弟は,解放後,母国語である朝鮮語を話すことができなかった。在日朝鮮人は,植民地民族としての鎖から解き放されると同時に,「日本」からの決別を,その子弟に母国語を取り戻すことから始めた。1945年8月朝鮮の解放後,差別と極貧の中から在日朝鮮人自らの手による「国語(朝鮮語)講習所」が全国各地に設立された。1946(昭和21)年9月の時点で,全国の朝鮮学校の数は,525の初級学校(生徒4万2182名),4つの中学校(生徒1180名),12の青年学校(生徒714名)の学校網が創設された。

しかし,米軍占領下でGHQの指示を受けた文部省は,朝鮮学校の弾圧に乗り出した。

1948(昭和23)年1月,文部省は,在日朝鮮人子弟が朝鮮学校で学ぶことを禁じ,日本学校への入学を強制する学校教育局長通達を出した(乙1号証)。植民地時代の同化教育の再現とみなした在日朝鮮人は,各地で反対運動を展開した。とくに在日朝鮮人の多い阪神地区では「阪神教育闘争」と言われる熾烈な闘いがあった。この闘争では16歳の少年が射殺され,数百人が重軽傷を負った。日本政府の苛酷な弾圧に反対する朝鮮学校側は,当時の森戸辰男文部大臣と「覚書」を交わし,かろうじて自主性を守った。

しかし,1949(昭和24)年にはより大きな弾圧が襲った。同年9月,法務総裁は団体等規制令違反を理由に在日本朝鮮人聯盟(朝聯)の解散を命じた。同年10月には,文部省管理局長・法務省特別審査局長共同通達を出した。その内容は,@旧朝聯が設置していた学校については廃校になったものとして処置する,A無認可の朝鮮人学校(民団系も含めて)は解散するよう勧告し,応じない学校には2週間以内に私立学校の認可申請を出せ,申請しないものは閉鎖する,というものだった(乙2号証)。10月19日には「(第二次)学校閉鎖令」(92校)を発布し,多くの朝鮮学校を武装警察官によって強制閉鎖した。また,11月4日「改組令」(245校)を強要し,学校改組の勧告に応じない学校を自動的に閉鎖し,ついで私立学校認可申請手続きをした128校については,文部省で一括審査したうえで大阪の1学園3校(白頭学園建国小・中・高)だけを認可したほかはすべて不認可として閉鎖を命じた。

同年11月20日,原告は,告示118号「学校廃止(東京第一朝聯小学校外16校)」を公示するとともに,都教育委員会名で「東京都立朝鮮人学校設置に関する規則」を制定し,「朝鮮人学校取り扱い要綱」を発布した。

これにより,都内の朝鮮学校14校はすべて都立学校になった。原告は,都立という形式で従来の朝鮮学校の生徒集団をそのままそっくり隔離しつつ,効果的な同化教育を強行しようとしたのである。

1950年代に入って在日朝鮮人子弟に対する民族教育は,自主学校(無認可校),公立学校・公立分校,日本の公立学校に特設された民族学級及び夜間学校という形態を通じて行われた。1952(昭和27)年4月の時点で,自主学校(無認可校)44校,公立・公立分校朝鮮学校32校,その他日本の公立学校に特設された民族学級77校であった。

()1952(昭和27)年4月28日,サンフランシスコ講和条約の発効によって日本は主権を回復した。この条約発効日を期して,国籍変更を行うための国籍法の改正も特別立法もないまま,旧植民地出身者(朝鮮人,台湾人)は「日本国籍」を喪失し,「外国人」になったと一方的に「宣告」された。日本国籍喪失の1952(昭和27)年4月28日に制定された外国人登録法には,初めて指紋登録義務が定められた(1980年以降の在日朝鮮人の指紋押捺拒否闘争の結果,2000年にようやく廃止)。その2日後(4月30日)に制定された戦傷病者戦没者遺族等援護法には「国籍条項」が設けられ,日本の戦争に駆り出された朝鮮人,台湾人はその国家補償から排除された。その後,日本は高度成長下で公共住宅,児童手当,国民年金などの福祉政策を充実させるが,それはいずれも「日本国民」のみを対象とし,在日朝鮮人など外国人は対象外とされた(なお,日本政府が1979年に国際人権規約を,1982年難民条約をそれぞれ批准することに伴って,公共住宅関連,児童手当,国民年金などにおける国籍による差別が一部撤廃された)。前述の「国籍処理」の効果は,こうした深刻な制度的差別をもたらすものとして機能したのである。

サンフランシスコ講和条約成立前,日本政府は,在日朝鮮人を外国人でありながら「日本国籍」を有する者とみなし,在日朝鮮人子弟に日本学校への「就学義務」を課し,それを理由に朝鮮学校を閉鎖・改組したことは前述したとおりである。しかし,日本の主権回復を期して「日本国籍」喪失が「宣告」されることによって,在日朝鮮子弟の状況は大きく変わることになった。日本政府は,在日朝鮮人子弟の日本学校への就学は「恩恵」であるとし,同時に朝鮮学校を外国人学校として,法的保護を与える必要なしとして放り出した。

すなわち,在日朝鮮人子弟に対する教育について日本政府はもはや何の義務も責任もないというのである。都立朝鮮人学校などそれまで公費で経営してきた朝鮮学校を在日朝鮮人の自主的運営に戻すという名目のもと,在日朝鮮人子弟の教育に対する公費援助を非合法であるとした。

なお,原告は,都立朝鮮人学校開設以来廃校までの間,以下のとおり公費を支出した(乙5号証)。

  年度

予算

1949

 14,948,842

1950

 46,673,256

1951

  48,005,451

1952

  58,620,621

1953

  78,458,212

1954

  85,288,844

1955

  47,400,000

東京都立朝鮮人学校は,1955(昭和30)年3月,14校すべてが廃校となり,自主学校に移行した。

朝鮮学校をつぶして,義務であれ恩恵であれ,在日朝鮮人子弟を日本学校へ就学させることが第一期を貫く文部省の基本政策であった。日本政府は,サンフランシスコ講和条約締結と同時に,植民地時代の同化政策の過ちを反省し,在日朝鮮人子弟に対する民族教育を受ける権利を保障すべきであったにもかかわらず,逆に同化教育の継続を意図したのである。

()1955(昭和30)年に在日本朝鮮人総聯合会が発足し,朝鮮学校は再建された。1956(昭和31)年には,朝鮮大学校が創設され,初級学校から大学に至る学校体系が整えられた。

東京においては,都立朝鮮学校を1955(昭和30)年3月末日をもって廃校するという通告にともない,朝鮮学校側は同年4月1日付で被告を設立し,同日を開校日として,被告の運営する各種学校として朝鮮学校設置の認可を受けた。

しかし,日韓条約を締結した1965(昭和40)年12月,文部事務次官は重要な通達(乙第3号証)を発した。それは,@朝鮮人が学ぶ公立小学校分校は存続を認めない。A朝鮮人学校を私立の正規校として認可すべきではない。また各種学校としても認可すべきでない。B今後は朝鮮人学校を含め新しい外国人学校制度を作りたい,というものであった。

特にAは,朝鮮学校を「学校教育法一条の学校として認可すべきではない」ことはもちろん,「朝鮮人としての民族性または国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は,わが国の社会にとって,各種学校の地位を与える積極的意義を有するものと認められないので,これを各種学校として認可すべきではない」とし,朝鮮学校の存在自体を否定するものであった。

そして,日本政府は,1966(昭和41)年から3年間にわたって外国人学校法案を国会に提案した(乙4号証)。その要旨は,認可権,是正・閉鎖命令権を文部大臣に集中することであった。14条からなる法案は,認可,届出,是正命令,報告及び検査,教育の中止命令など規制に関するものばかりで,私学助成などの保護規定は何一つ含まれていなかった。極端な外国人学校敵視政策というほかないものであった。

しかし,在日朝鮮人はもちろん,日本人も各界各層をあげて反対したため,外国人学校法制定の動きは,1968(昭和43)年の第3次提出も廃案となり,ついに成立を見ることはなかった。

3 朝鮮学校に対する処遇の改善

()1960年代後半,文部省が朝鮮学校を学校として認めるなという通知を発したこととは反対に,朝鮮学校を学校として社会的に承認する運動と認識が民間の側に広がり,根づいていった。

谷川徹三氏,務台理作氏,末川博氏といった国際的に名のある知識人が代表となって「在日本朝鮮人民族教育懇談会」を結成し,そこには日教組,母親大会連絡会など教育関係諸団体が参加した。在日朝鮮人子弟に民族教育を受ける権利を保障しなければならないことを説き,朝鮮学校の正当性を主張した。

1966(昭和41)年3月,「在日朝鮮人の民族教育を守る全国代表者集会」を開き,その運動を全国に広めた。これと並行して,教師たちの間に「日朝教育研究集会」を開く試しが全国化した。

()朝鮮学校を民族学校,外国人学校として認め,民族教育権を保護する法制度が存在しない現状において,民族教育権の法的保護をはかるための残された唯一の手段は,教育内容が規制されない各種学校の資格をとることであった。なお,1975(昭和50)年に創設された専修学校については,「わが国に居住する外国人を専ら対象とするものは除く」(学校教育法第82条の2)となっている。

都道府県知事は,朝鮮学校に対し各種学校としての資格さえ認可するなと文部省事務次官から通達されていたにもかかわらず,1966(昭和41)年には32校,翌年も28校を各種学校として認可した。とくに1968(昭和43)年4月,美濃部亮吉東京都知事は,文部省の強い圧力にも屈せず,朝鮮大学校を各種学校として認可した。

以降,1975(昭和50)年までにすべての朝鮮学校が各種学校として認可された(乙36号証)。文部省の朝鮮学校の否認方針は都道府県知事によって覆されたのである。

()朝鮮学校を各種学校として認可した後,地方自治体における教育助成金拠出の動きがはじまった(乙36号証)。

ア 原告は,朝鮮学校に対し,1970(昭和45)年から「私立学校教育研究助成金」を拠出した。それを皮切りに,各地方自治体による教育助成金拠出の動きがはじまった。1974(昭和49)年には大阪府が「私立専修各種学校設備補助金」を,1977(昭和52)年には神奈川県と愛知県が「私立学校経常費補助金」の給付に踏み切った。このように1970(昭和45)年代から地方自治体は,日本の私立学校と比べるとまだまだ十分とはいえないまでも,朝鮮学校に対し,各種教育助成金を拠出するようになった。1980(昭和55)年代に入ると朝鮮学校のあるほとんどの県単位で助成が行われるようになった。1997(平成9)年に愛媛県が補助に踏みきったことにより,朝鮮学校が設置されている29都道府県すべてに及び,空白はなくなった。

イ また,朝鮮学校に通う生徒の保護者らの粘り強い努力によって,市区町村からも公的補助がなされた。1979(昭和54)年3月,東京朝鮮第6初中級学校の保護者は大田区民3万名の署名を集めて大田区に提出し,助成金の交付を請願した。区議会側は,朝鮮学校に対する助成を阻もうとする1965(昭和40)年文部事務次官通達とのかねあいで対応に苦慮したが,結局,子をもつ親の切実な要望を拒否することができなかった。審議の過程では,「文部事務次官通達があるが,人道に反した通達内容であれば遵守する義務もない。」「自治体の長は教育の機会均等とすべての人が平等であるとの立場で独自の判断をすべきである。」といった議論が交わされ,1980(昭和55)年9月に「保護者補助金」が拠出されるに至った。 その後,保護者補助金は都内全区に広がり,日野市,府中市など都下12市,神奈川県川崎市などに拡大していった。

兵庫県芦屋市では,1987(昭和62)年,同市から朝鮮学校に通う生徒に対し,奨学金給付を決定し,1996(平成8)年現在,兵庫県内の8市が年間2000万円の奨学金を支給している。

さらに,朝鮮学校を一般の「各種学校」扱いから独立させ,「学校」と認めて助成する地方自治体が出てきた。神奈川県では1991(平成3)年度から朝鮮学校を学校教育法1条が規定する正規学校(いわゆる1条校)に類似した「学校」として位置づけ,生徒一人当り年額6万円の支給を開始した。東京都大田区においては,2001(平成13)年から「外国人学校振興費補助金」として年額100万円を交付している。

助成は年々拡大してきている。1994(平成2)年3月議会で新たな助成金制度の新設,増額を決定した自治体は10の県市区(新設)を含む34の府県市区町にのぼった。なかでも兵庫県 宝塚市は1994(平成2)年4月から宝塚朝鮮初級学校に通う同市内の児童を対象に1人当り年額11万円の「児童保護者就学補助金」の支給を開始した。

広島市は政令都市としては川崎市に次いで2番目に「外国人学校就学補助」(月額4000円)を支給した。横浜市は初めて朝鮮学校付属幼稚班に対し日本の私立幼稚園と同額の就園奨励補助金(年額3万4000円)を適用した。

そればかりか,地方自治体の中には,朝鮮学校の改築・新築や設備のために補助金を支出するところも出てきた。

川崎市は,1986年,川崎初中級学校の体育館建設補助金として予算2億6000万円の50%を補助した。また,ブロック塀及び運動場整備補助金として4230万円を拠出した。奈良では,1991(平成3)年,朝鮮学校を「わが国の義務教育に準じる教育を行っている」ものととらえ,奈良朝鮮初中級学校の改築費用として,県が2000万円,市が1000万円の補助金を拠出した。滋賀では,1991(平成3)年に,滋賀朝鮮初中級学校に対して「新築校舎建設補助金」として県が5000万円,大津市が2500万円を助成した。1995(平成7)年,東京都板橋区等4区においては東京朝鮮第3初級学校改築費として1100万円を拠出した。同年,東京都大田区においては東京朝鮮第六初級学校改築費として2000万円を拠出した。

ウ 1995(平成7)年現在,朝鮮学校に何らかの形で助成金を支給している地方自治体は,27都道府県154市23区33町に及んでいる。朝鮮学校は地域社会に根づき,民族「学校」として評価されているのである。

()1990(平成2)年代に入ると,以下のとおり,朝鮮学校を社会的に認知する動きがますます強まった(乙36号証)。

   ア 1991(平成3)年3月,全国高等学校野球連盟が朝鮮学校を含む外国人学校の同連盟主催の大会への参加を承認

   イ 1994(平成6)年3月,全国高等学校体育連盟が朝鮮学校を含む各種学校にも同連盟主催の大会への参加を承認  

   ウ 1994(平成6)年4月,JR各社が朝鮮学校に通う子どもたちに対する通学定期券運賃の割引率格差を是正し,1条校と専修学校,朝鮮学校を含む各種学校の格差を解消

   エ 1997(平成9)年,この年度より全国中学校体育連盟主催の大会に朝鮮学校の参加を承認

   オ 1999(平成11)年,文部省が朝鮮学校を含む外国人学校卒業(見込)生に対する大学院への入学資格認定,及び朝鮮学校を含む外国人中学校卒業(見込)生に対する大学入学資格検定の受検資格を認める方針発表・省令改正

   カ 2003(平成15)年,文部科学省の大学入学資格の弾力化方針にともなう省令改正を受け,全国80校余りの国立大学が朝鮮高級学校卒業(見込)生に対して大学入学(受験)資格を認める方針発表・省令改正

4 国連条約委員会の勧告

日本が批准している子どもの権利条約,自由権規約,社会権規約,人種差別撤廃条約の履行監視機関である国連の各委員会は,1998(平成10)年以来,日本政府に対し,朝鮮学校に対する差別政策について勧告・懸念を度重ねて表明している(乙6ないし乙10号証)。

とくに,2001(平成13)年8月30日の国連社会権規約委員会の総括所見においては,「委員会は,それが国の教育課程に従っている状況においては,締結国がマイノリティーの学校,特に在日韓国・朝鮮人の人々の民族学校を公式に認め,それにより,これらの学校は補助金その他の財政的援助を受けられるようにし,また,これらの学校の卒業資格を大学入学資格と認めることを勧告する」と明言した(乙6号証)。

5 日本弁護士連合会の勧告及び調査報告

日本弁護士連合会は,1998(平成10)年2月,日本政府に対し,朝鮮学校に対する助成制度などの差別的な取り扱いが日本に在住する外国人の母国語ないし自己の国ないし民族の文化を保持する教育に関する重大な人権侵害があるとして,人権侵害を除去し,その被害を回復する適当な処置をとるよう勧告した(乙11号証の1)。そして,人権救済申立事件調査報告書においては,日本に在住する外国人に対する教育に関する人権侵害の解消措置として,例えば,朝鮮学校などに対する経常経費に関する助成金について,「在日朝鮮人子弟など外国人の児童生徒が自らの文化を保持して義務教育課程を無償で受けられるために,一人あたりすくなくとも日本国の国公立小・中学校の児童生徒一人の教育に要する経費と同額の助成金を交付すべきである」とし,また,施設費については,「児童生徒の数に応じて,日本国の国公立小・中・高等学校と同程度の環境・施設において教育するに必要な施設費を助成する。」「教育施設の固定資産(土地建物)については,賃借費用相当を限度とすることができる。」と明言している(乙11号証の2)。

  6 小括

    以上のように,1970年代以降,朝鮮学校は地域に根付き,広く社会的承認を受けるようになった。

2003(平成15)年度,全国高校ラグビー大会の大阪代表に大阪朝鮮高級学校が,全国高校サッカー大会の京都代表に京都朝鮮高級学校が,それぞれ地区大会で優勝し出場したこと,また,2004(平成16)年,朝鮮高級学校の生徒が朝鮮学校卒業(見込)生の入学(受験)資格で,京都大学,神戸大学などに合格したことは記憶に新しい。

前述したとおり,1975(昭和50)年までにはすべての朝鮮学校が各種学校として認可された。また,1970(昭和45)年に原告が被告に対し「私立学校教育研究助成金」を拠出したことを皮切りに,1980年代に入ると朝鮮学校のあるほとんどの県単位が助成金を交付した。全国の市区町村も教育助成金を交付するようになった。

地方自治体の間に朝鮮学校を「日本における学校教育に準じる教育を行っている学校」であるという見方が定着し,まだまだ不十分であるものの,教育費助成が行われるようになったのである。

教育の国際化,多文化共生社会と言われる21世紀,1970年代に比べ朝鮮学校の法的地位は一層高まっている。

 

三 東京朝鮮第二初級学校の沿革及び同校校地使用の経過

  1 「隣保館」において国語(朝鮮語)講習所を開設(乙34,乙37号証)

原告は,1931(昭和6)年頃から1949(昭和24)年11月まで,朝鮮人の教化施設用地として,財団法人東京府協和会(後に東京都興生会に改称)に対し現在の東京朝鮮第二初級学校の敷地を無償貸与した。1940(昭和15)年,同会が上記敷地内に「隣保館」を設置した。1945(昭和20)年12月,枝川地区に居住する在日朝鮮人は,同会から「隣保館」を無償で借り受け,「隣保館」を校舎として,「国語(朝鮮語)講習所」である深川初等学院を開設した(乙24号証)。1946(昭和21)年には中央区月島所在の京橋初等学院,1947(昭和22)年には新宿区所在の戸塚初等学院を併合して,江東区,中央区,その他の近接地域の朝鮮人子弟を収容する初等学院となった。1948(昭和23)年5月,学校教育法により私立学校の認可を受け,「東京朝聯第2小学校」と改称した。

2 都立第二朝鮮人小学校

1949(昭和24)年9月,在日本朝鮮人連盟が団体等規正令違反により解散させられ,同年10月には「学校閉鎖令」が発布された。同年12月,「東京朝聯第2小学校」は,「都立第二朝鮮人小学校」に強制移管させられた。校舎は従前どおり「隣保館」が使用された。

原告は,都立朝鮮学校が廃校する1955年3月末日までの間,東京都教育委員会(都立第二朝鮮人小学校)に対し現在の東京朝鮮第二初級学校の敷地を無償貸与した(乙24号証)。

3 被告の運営する「東京朝鮮第二初級学校」としての再出発

朝鮮学校側は都立朝鮮学校の廃校にともない1955(昭和30)年に被告を設立し,被告の運営する各種学校として認可を受けた。江東区枝川近隣の在日朝鮮人子弟に対し民族教育を施す朝鮮学校は,同年4月1日から被告運営の東京朝鮮第二初級学校として再出発した。

4 「隣保館」の借り受け

被告は財団法人東京都興生会から,1955(昭和30)年4月1日から1964(昭和39)年3月31日までの間,校舎として下記物件を無償で借り受けた(乙12号証の1ないし同12号証の4)。

              記

所在地  江東区深川枝川町一丁目1〜9

種 別  建物

構 造  木造平家瓦葺

坪 数  174・75坪

5 原被告間の東京朝鮮第二初級学校用地に関する契約締結の経緯

()被告は原告から,1955(昭和30)年4月1日から1960(昭和35)年3月31日までの間,江東区深川枝川町一丁目9番地所在の埋立地を東京朝鮮第二初級学校用地として借り受けた。具体的な内容は以下のとおりである。

被告は原告から,1955(昭和30)年4月1日から1960(昭和35)年3月31日までの5年間,学校用地として不可欠な江東区深川枝川町一丁目9番地所在のうち600坪の埋立地(アの土地)を無償で,運動場用地として江東区深川枝川町一丁目9番地所在のうち390・98坪の埋立地(イの土地)を有償で借り受けた。

(アの土地)

契約締結日

期間

 貸付料

  証拠

1955.10.25

1955.4.11955.9.30

  無償

141

1955.10.21

1955.10.11960.3.31

  無償

142

(イの土地)   

契約締結日

    期 間

 貸付料

 証拠

1955.10.25

1955.4.1〜1955.9.30

総額25,805

(月坪当り11円)

151

1955.10.21

1955.10.11956.3.31

月額4,300

(月坪当り11円)

152

1956.6.15

1956.4.11957.3.31

  同上

153

1957.4.1

1957.4.11958.3.31

  同上

154

1958.4.1

1958.4.11959.3.31

  同上

155

1959.4.21

1959.4.11960.3.31

  同上

156

 

()被告は原告から,1960(昭和35)年4月1日から1964(昭和39)年3月31日までの4年間,江東区深川枝川町一丁目9番地所在のうち990・98坪(上記ア+イの)埋立地を有償で借り受けた。

契約締結日

期 間

 貸付料

 証拠

1961.10.28

1960.4.11962.3.31

総額273,972

(1960年度は

月額4,300

1961年度は

月額18,531円)

161

1962.7.25

1962.4.11963.3.31

総額222,372

(月額18,531円)

162

1963.6.12

1963.4.11964.3.31

総額444,744

(月額37,062円)

163

 

()1960(昭和35)年頃から,新たな校舎を建設しようという機運が持ち上がった。それまで教室として使用していた「隣保館」の老朽化が進み,雨漏りなどして授業が中断せざるを得ない状態であったからである。

被告は,新たな校舎を建設する敷地として,被告が原告から校地として借り受けていた江東区深川枝川町一丁目9番地所在の上記埋立地のうち,280坪の土地を買い受けることにした。

被告は原告から,1963(昭和38)年12月23日,上記江東区深川枝川町一丁目9番地所在の上記埋立地のうち,280坪の土地を代金12,236,000円(坪当り43,700円)で購入した(乙17号証)。

上記1963(昭和38)年12月23日付土地売買契約の締結にともない原被告間の1963(昭和38)年6月12日付埋立地賃貸借契約の貸付面積が710・98坪に,使用料が総額410,287円(月坪当り37円40銭)に変更された(乙18号証の1)。

被告は,1964(昭和39)年2月に自ら費用を負担して新校舎を建設し,同年4月から中級部併設して「東京朝鮮第2初中級学校」に改称された。

被告は原告から,1964(昭和39)年11月9日,同年4月1日から1965(昭和40)年3月31日までの1年間,運動場用地として江東区深川枝川町一丁目9番地所在の710・98坪の埋立地を有償で借り受けた。

契約締結日

  期間

  貸付料

 証拠

1964.1.20

1963.4.11964.3.31

総額410,287

181

1964.11.9 

1064.4.11965.3.31 

総額319,080

182

 

()被告は,1962(昭和37)金順祚外3名との間で,同人ら共有の江東区深川枝川町一丁目9番地所在家屋番号同町9番の6木造亜鉛メッキ鋼板葺平屋建浴場1棟を撤去し,同人らがその敷地を明け渡し,被告が原告から上記敷地を賃借又は払下げを受けることに協力することを内容とする契約を締結した(乙19号証)。

また,被告は財団法人東京都興生会から,1965(昭和40)年4月1日,上記「隣保館」を無償で譲り受けた(乙13号証)。

被告は原告から,上記710・98坪の埋立地に加えて,上記浴場敷地及び「隣保館」の敷地を学校用地として借り受けることにし,1966(昭和41)年4月1日から1971(昭和46)年3月31日までの間,江東区深川枝川町一丁目9番地所在の4033・38u(1220・10坪)の埋立地を校地として有償で借り受けた。

契約締結日

   期間

  貸付料

 証拠

1966.4.22

1966.4.11967.3.31

総額657,384

201

1967.9.18

1967.4.11968.3.31

同上

202

1968.5.22

1968.4.11969.3.31

貸付料空欄

203

1968.12.28

   同上

総額822,804

204

1969.8.3

1969.4.11970.3.31

総額1,258,404

205

1970.11.2

1970.4.11971.3.31

総額2,971,764

206

 

()被告は,1971(昭和46)年7月17日,当時の東京都知事美濃部亮吉氏に対し,「東京朝鮮第一,第二初中級学校校地賃借料に関する要望」を提出し,歴史的経緯と学校財政の困難さ,特に民族学校への国庫補助がなされていないことを理由にして,校地使用料を無期限で無償にするよう要望した(乙23号証)。

これに対し,原告は,上記被告の要望を受け入れて,1972(昭和47)年4月14日,1970(昭和45)年4月1日からとりあえず20年間,江東区深川枝川町一丁目9番地所在の4033・38u(1220・10坪)の埋立地を校地として無償で貸し付けた。

契約締結日

    期 間

貸付料

 証拠

1972.4.14

民法の賃貸借の規定等との兼ね合い,都における財産管理にかかる諸規程等から期間は一応1970.4.1から20年間とする。しかしながら,期間満了の際になお学校敷地として継続使用する必要がある場合は協議し善処したい。

  無償

乙24

甲5

  ()被告は,1997(平成9)年4月,初級部単設校に変更し,「東京朝鮮第二初級学校」と改称した。

()なお,原告は被告に対し,歴史的経緯と学校財政に配慮して,東京都荒川区東日暮里町三丁目291番1所在の都有地を東京朝鮮第一幼初中級学校敷地として以下のように貸し付けた。

契約締結日

  期間

貸付料

面積

 証拠

1977.5.25

1977.4.1から

20年間

無償

4,671u

272

 1997.5.13

1997.3.4

から3年間

無償

4,75891u

273

 2000.6.26

2000.3.4

2010.3.31

年額

2,500,000

 同上

274

上記契約はいずれも,「期間満了後,引き継いで第2条に定める用途に供するための土地を使用しようとするときには,貸付期間満了前の6月までに書面をもって甲に申し出なければならない。」旨期間の更新について定めがあり,実際に,更新がなされるなど朝鮮学校の敷地としての使用が継続されるよう配慮されてきた。

6 契約期間満了に伴う交渉経過

()契約期間満了前から1994年まで

契約期間満了時である1990(平成2)年3月31日の約2ヶ月前の同年2月3日,原告港湾局と被告は契約期間満了後の契約について協議し,原告港湾局は「学校法人東京朝鮮学園への土地の貸付けの経緯」という文書(乙第25号証)を交付し,被告に買い取りを要求した。その後,原被告は,同年3月3日,5月8日,6月15日に協議したが,原告は買い取りを要求し,被告は,財政難のため契約満了時点から当面1992(平成4)年までの2年間の使用貸借契約更新を要求し,折り合わなかった。

翌年1991(平成3)年5月14日には原告の行った測量に被告らが立会い,7月12日には土地境界確認協定書を作成した。

同年12月4日,都は払下金額の提案として1uあたり当時の時価評価で171万5000円,実測面積4139,61u,土地総額約71億万円,それを53%減額して約33億3573万円での払下げを提案してきた(乙26号証)。国庫から一切の補助もなく,枝川の在日朝鮮人有志の寄付により維持してきた被告にとって,途方もない高額であり,その金額での買取りは不可能であると回答した。1992(平成4)年4月9日には,東京朝鮮第二初級学校の校長が交代し,原告の港湾局に挨拶に行き,安価での払下げを申しいれたが,値段の折り合いつかなかった。このように金額がかけ離れていたため,1993(平成5)年,1994(平成6)年には交渉は進まなかった。

()枝川1丁目全体の払下げ交渉(1995年〜2000年)

1995(平成7)年11月17日,原告の土木課から枝川住宅管理委員会に対し,枝川1丁目地区の土地整備の件で協議したいとの連絡があり,同年12月4日原告の財務局から4人が現地に来訪した。その際原告は「区画道路素案」を提示し,同年1月の阪神大震災で住宅密集地区において死傷者が多数でたことの反省から,地震対策のため枝川1丁目地区の住宅地問題を解決したいとの提案があった。確かに,枝川1丁目地区の土地は都の所有地であり,都営住宅が建てられていたにもかかわらず,都が戦後直後から管理を放棄した結果,道路は極端に狭く,住民らの建てた住宅が相互に密着しており,地震災害の時には大惨事が予想される危険な状態であった。同年12月9日,枝川1丁目地区住民が協議し,住民側の都との交渉窓口を1本化することとし,枝川1丁目生活擁護同盟と枝川住宅管理委員会が共同で交渉にあたることとにした。また,被告の交渉担当者も毎回交渉に参加した。

1996(平成8年)3月18日には原告が,枝川1丁目地区住民に対する説明会を開き,住宅地整備事業を行い道路を確保することなどを提案した。その後の協議において,原告が「枝川簡易住宅の歴史的経緯について」との文書を提案し,その歴史認識について,原告と被告らとの間で協議を重ね,1997(平成9)年5月8日には原告と上記2住民団体とは覚書を締結し,歴史的経緯を踏まえて誠意をもって整備を進めることを原告は確認している(乙28号証)。

被告らは,原告との協議において,枝川の住宅地の払い下げ交渉と同時に,交渉が中断している学校敷地の払下げもしくは利用契約問題も合わせて一括して解決するよう原告の財務局と港湾局に対し要求した。しかし,原告は,阪神大震災において住宅密集地での多数の死傷者が出たことから,まずは住宅地の整備を優先したい,また,住宅地の担当は財務局であり,学校敷地の担当は港湾局であって担当が違うので,原告側の窓口を一本化できず,同時処理は困難と主張した。そこで,被告らは,最終的に,同年11月5日と11月27日の原告との協議において,住民の生命・安全確保のためと都の都合を考慮して,住宅地の処理を優先することはやむをえないが,住宅地の処理が終わったら,次は学校敷地問題を処理すること,学校の敷地を含む枝川1丁目全体の地震対策の問題として,まずは区画整理と住宅敷地の払い下げを処理することの確認を要求し,原告がその旨確認した。

その後,原告及び被告らは,何度も協議を重ね,原告側は,住宅敷地払い下げ価格を相場の6割から8割減まで下げることを提案してきたが,被告らと条件がおりあわなかった。結局,1999(平成11)年7月,裁判所を入れた公的な決着をはかる趣旨で,枝川1丁目の住民の1人が住民代表として土地所有権確認訴訟を提起した(東京地方裁判所平成11年()第15664号事件)。そこで裁判所の和解案に基づき,2000(平成12)年5月15日,減価率93%(建物敷地は原告評価額の7%,更地は時価の3・5%での払下げ)で和解が成立した(乙29号証)。 

その後原告と被告らは,上記和解に基づき,個々の土地についての契約を締結し,決済や登記手続などの処理を行った(乙30号証)。その際,枝川1丁目地区内の駐車場,住民の生活共同組合敷地,初級学校入学前の子どもたちの塾の敷地については,原告と被告らとが協議の上,住民個人が使用しているのではない公的な場所であるから,教育機関であって同地区の公的存在である被告が取得することとした(払下げ全面積3828坪のうち263坪)。なお,1996(平成8)年秋から枝川1丁目の住民が,東京朝鮮第二初級学校の校庭を災害時の避難場所としてほしいとの署名を集め,枝川住宅管理委員会と学校が,江東区役所に1997(平成9)年3月25日に172名分を提出している。

()住宅地裁判終了後の学校用地の交渉(2001年〜現在)

原告の財務局は,2001(平成13)年8月及び2002(平成14)年3月27日,被告らに対し,枝川1丁目の地域整備事業の一環として,高層ビル化と学校移転等の計画案を口頭で説明し,その計画を民間会社に依頼することを提案した。しかし,被告らは,回答を保留し,その後江東区からの急増した高層ビルマンション計画に対する規制などで,この提案は立ち消えになった。

2001(平成13)年2月19日,原告港湾局から被告に対し,住宅地の件が概ね片付いたので,1996(平成8)年11月当時の合意に基づき,学校敷地の問題について協議をしようとの連絡があった。

同年5月16日には,原告港湾局は,@過去数年間,住宅整備を優先し学校敷地の交渉が後回しになったこと,A期間満了後,新規契約締結に至るまでの賃料は請求しないことを確認した。また,同年9月5日には原告港湾局担当者が学校を訪問し,@枝川の歴史的経緯を尊重すること,A枝川1丁目の住宅地払い下げの条件に沿った形で学校敷地の払下げの条件を検討すること,B学校敷地は枝川1丁目住民にとって,地震の際の避難場所や集会の場所となる公的な場所であり,かつ,歴史的に住民たちが子どもたちの教育のために協力して資金や労力を出して整備してきた大事な場所であることを確認した。被告らは,学校敷地が民族教育機関との意味でも,住民の安全確保と交流の場という意味でも公的で大事な場所であることから,その公共性に鑑み,枝川1丁目の住宅地払下げよりもさらに安く払下げをしてくれるよう要請した。

その後,原告港湾局は,学校敷地交渉に際し,2003(平成15)年春まで,毎年11月の学芸会と6月の運動会を観覧し,同校が行っている民族教育を実際に見て,その教育の意義を認める発言をしている。

2003(平成15)年にはいってからも交渉は継続し,7月24日には協議の継続を双方で確認した。その際,原告側は,今後は文書で双方の主張を確認したいと要望し,被告は無償の土地借入契約の継続か,枝川地区の住民への払い下げ条件を参考にしての安価での払い下げを要望した。

ところが,同年8月25日,原告港湾局から連絡があり,同月12日に住民から本件土地につき監査請求をされたとのことで,原告の態度が一変し,これまでの協議の過程を無視し,突然9月1日には内容証明郵便を一方的に送りつけてきた。

被告らは,これまでの交渉経緯を尊重するように要求し,何度も都庁へ足を運んだが,原告の態度は硬化したままで,同年10月3日に監査結果が出て,今回の提訴に至っている。

   

四 無名契約たる「朝鮮学校用地無償貸付契約」に基づく占有権原について

1 1972年4月26日付契約(甲6号証,以下「本件契約」という。)の法的性質の解釈問題について

()合理的解釈の基本的必然性

日本民法の典型契約のひとつである,使用貸借契約は,フランス法・ドイツ法にならったものであり,その基本的性質については,一時的・暫定的で借主の一方的な利益のためになされることを可能にする貸主側の好意性によって成立するということが立法にあたって想定された趣旨であった。当事者の各特定の給付が相互に対価としての意義をもちつつ権利義務関係を構成する構造の有償契約とは異なり,無償契約である使用貸借にあっては,無償の給付を誘導するものとして個人的ないし共同体的な人間関係の存在が前提にあると考えられた。民法が,なるべく存続期間も最小限の合意期間にとどめ(更新を強制せず)使用の目的から返還請求を可能にして契約が不当に長く存続することを避けようとする規定(597条)を設けているのは,使用貸借契約が個人間の特別の信頼関係に基づく一時的関係を規定するとする上記の基本的性質の認識から出たものである。このような法的関係が想定された使用貸借契約にあっては,現実に不動産の利用関係への適用が問題とされた事例・判例がフランス・ドイツにおいては殆ど見あたらず,日本の判例でも少数にとどまるという顕著な傾向がある。これは,不動産の利用関係を規律する法規範としては,上記の使用貸借契約の基本的性質にはそぐわないものがあり,使用貸借構成が法的解決の規範的根拠としては,合理的に機能しないからである。言い換えれば,不動産の利用関係(それ自体として継続的安定的な存続が事物の性質上要請されることが一般的である。)に使用貸借の規定を適用することに合理性がある場合とは,不動産を利用させている側(貸主)に不当に強い拘束とならない要請が客観的に認められるような場合に限定すべきであり,利用者の保護が積極的にはかられる必要がある場合には典型契約のモデルとしての使用貸借をもって論じるべきではない,とする基本的な結論が導かれる。日本での不動産についての使用貸借が争われた判例を概観しても,不動産の無償貸付を導いた特別な事情に即して,当該法律関係の合理的な法的性質決定や解釈を行っているのであり,本件のような特異なケース(学校用地として現に使用中の不動産を地方公共団体が不法占拠呼ばわりして明け渡しを求める,という一事からしてすでに異常である。)においては,「使用貸借」との形式文言から,直ちに民法の規定する典型契約のひとつである使用貸借とするような単純かつ図式的な思考方法は,法解釈の原則に反し,紛争の実態を見失うことになる。本件のように公有財産(普通財産)の無償貸付が成立する事情や目的にはさまざまのものがあり(例えば,社会福祉法58条に基づいて,地方自治体において,社会福祉法人に対し社会福祉施設用地を無償貸付する例等),その目的や実態からその法的関係(契約関係)を合理的に解釈する必要があるのである。後述のように,本件契約は歴史的経過を踏まえた原告の一定の積極的判断によってはじめて成立したものであり,当事者間でどのような客観的事実や目的を踏まえて本件契約を成立させ得たかを見れば,民法の使用貸借契約とはまったく異なるものとして本件契約が成立したことは疑う余地のないほどに明らかである。

()本件土地は,一貫して在日朝鮮人の民族教育の場所である。

既述のように,1945(昭和20)年の日本敗戦は,長く植民地支配に下で民族的尊厳を否定され,抑圧されてきた朝鮮人にとっては解放のときであり,在日朝鮮人が真っ先に着手したひとつが朝鮮語(母国語)による民族教育の実施であったことは歴史的背景からすればまことに自然なことであった。朝鮮の言語を学ぶことを許されず,皇国臣民としての同化教育を受け,朝鮮人としての民族的文化・伝統を学ぶ機会を殆ど奪われて成長していた多くの朝鮮人子弟の親たちにとっては,親子の関係を断絶させ思想を交換することも不可能にさせるような事態が家族関係の中に抗い難い現実として進行していたのであり,解放された在日朝鮮人にとってはいかに切実なものとして民族教育の再開が意識されていたかを理解することは容易である。このことは,日本の公立学校で,軍国主義教育の教科書を「墨塗り」しながら使用していた事態が同時に進行していたことをあわせ考えれば一層理解しうることである。

1945(昭和20)年から,枝川地区の中にあって朝鮮人の教化施設として使用されていた「隣保館」が「国語教習所」に転用されて以来,本件土地は一貫して今日まで枝川地区周辺の在日朝鮮人の民族教育の場であった。この土地の利用関係を,単純に使用貸借契約に過ぎないとの前提で,20年の期間経過後において,新たな契約が結ばれていないという外形を唯一の根拠にして,直ちに無権限占有(不法占拠)などという非常識な結論を出した監査意見(甲7号証の1,第3―3−(1))の不当性もさることながら,これをさらに上塗りするかのように提起されたのが本件訴訟である。原告の請求がいかに事実を無視し倒錯したものであるかは事態を知り得るものであれば法常識に照らしても明らかなはずである。そこで,まず1972年の本件契約がどのようなものとして成立したかを客観的事実に基づいて確認する必要がある(本項で,枝川地区形成の歴史的経緯を含めて概観してきたのもこのためである。)。またこのことが直接的には,本件訴訟の最も基本的争点であると解される本件契約の解釈にとって不可欠なことでもある。

2 本件契約を成立させた客観的かつ特徴的事情

()本件土地が,都立朝鮮学校の廃校にともない,学校法人の資格を得た被告が,学校教育法に基づく各種学校の認可を受けて設立した「東京朝鮮第二初級学校」の学校用地として,1955(昭和20)年4月1日より使用を開始した以降の契約関係は,三―5以下で述べたとおりであり,当初は学校用地として不可欠な600坪については無償とし,運動場用地の390・98坪は有償とされたが,1961年(昭和36年)10月28日付の埋立地賃貸借契約書(乙16号証の1)以降は,両土地(990・98坪)合せて有償となった(但し,上記の学校用地として不可欠な用地に当る600坪については,昭和35年度に限って無償とされた。)。この有償化後の貸付料(地代,以下「賃料」という。)は,公的補助がなく財政能力の貧弱な被告にとっては重い負担となった。被告は,1963(昭和38)年,それまで朝鮮第二初級学校校舎として旧「隣保館」を使用してきたが,同建物が老朽化等によって危険となったため子弟父母の要望も強く,校舎新築を決意し,とりあえず新校舎に必要な部分の払下げ申請を原告に対して行い,同年12月23日,280坪について原告との間で土地売買契約を締結した(乙17号証)。ところが,一方で貸付地の賃料は急激に増額され続け,上記280坪の売買代金については,5回分納方法が取られていたが,第4回分以後は延納を余儀なくされたり,賃料の支払も困難となるような事態が続くような状況になった。賃料の増額の程度がどのようなものであったかを示せば次の如くである。

契約年

    賃料(年額)

1955年 

      9,900円

1963年

444,744円

1968年 

657,744円

1969年

822,804円

1970年

1,258,404円

1971年 

2,971,764円

上記の数字が被告の朝鮮第二初中級学校にとってどのようなものかは,1966(昭和41)年当時の学校の年収入(授業料を含む)が116万円程度であったことを知れば想像に難くない。被告は,1963年当時においては,学校経営の安定をはかるために,学校用地全部について5カ年計画で払下げを受ける方針であったが(乙21号証の払下申請書に添付された被告理事会決議録参照),財政逼迫のために賃料支払もままならぬ事態に逢着したのであった。特に前記のように,1969(昭和44)年8月15日の貸付契約(乙20号証の5,同年4月1日から1970年3月31日までを期間とする。)では,賃料総額が125万8,404円とされ,さらに1970年11月2日の貸付契約(乙20号証の6,1970年4月1日から1971年3月31日までを期間とする。)では,賃料総額は一気に倍額以上の297万1,764円に跳ね上がったことにより被告の賃料支払は全く不可能となった。長年にわたって在日朝鮮人の民族教育のために苦労を重ね,自主性に満ちた人々によって支えられてきた被告経営の朝鮮学校は,このとき文字通り危殆に瀕するところまで追い詰められていたのである。

このような状況下で,1971(昭和46)年7月17日,美濃部亮吉東京都知事あてに被告から「東京朝鮮第一,第二初中級学校校地賃借料に関する要望」(乙23号証,以下「要望書」という。)が提出された。同書において,被告は,「東京朝鮮第2初中級学校は別紙のごとく校地賃借期限が毎年切替るたびに賃借料金が上昇されるので最近では学校運営上ゆきづまり,賃借料金も数百万円が未納になっております。ご承知の通り,昨今の物価高から学父兄達は生活の困窮をきたし,学校の自主的運営の維持が極めて困難になっております。現在,在日朝鮮公民の自主学校に対する日本政府の補助金が一切支給されておりませんが,日本政府の道義的な義務については,暫く措くとしても,在日朝鮮公民に課されている納税の義務は当然政府当局の補助を受ける正当な権利を有するものであると考えます。」と訴え,「何卒在日朝鮮人子弟の教育のために校地使用料を無期限で無償にしていただくように」と要望した。これに応えるかたちで本件契約の締結がなされたのである。

()ところで,原告において,前記のように賃料の増額を通常の土地賃貸借の場合に比しても非常識なほどに一方的かつ急激に行ったのはなぜであろうか。1955(昭和30)年当初は,朝鮮学校用地のために使用することが明示され,学校用地として不可欠の部分については無償とされるなど,その使用目的についての一定の理解ないし配慮がなされながら,1964(昭和39)年に埋立地賃貸借契約担当者が原告港湾局長となった以降(乙18号証の1)は,特に顕著に,学校用地という公共性・公益性が顧みられなくなっていった理由は何か。

それは,訴状で原告が主張するように,原告は本件土地を臨海地域開発事業用地として位置づけ,同事業について地方公営企業法の財務規定等の一部適用方式をとったことに関わるのである。地方公営企業は,公共の福祉の増進を図ることを第一義としながらも,常に企業としての経済性を発揮するように運営されなければならないとされている(同法3条「経営の基本原則」)。ことに,地方公営企業の経営悪化が指摘され,1964(昭和39)年に地方公営企業制度調査会による「地方公営企業の財政再建についてとるべき当面の方策に関する答申」(当時,地方公営企業関係者に,「中間答申」と呼ばれたもの。)がなされた後には,徹底的な経営の合理化・能率化と料金の適正化が殊更に強調された。原告港湾局は,このような背景の中で,所管する埋立地のうち,1年更新で継続貸付をしている土地については,財源確保や企業経営のために早期の売却処分をはかるか,売却処分に至らない場合には,高額な賃料を請求することを「正常化」と考え,議会のチェックも受けずに埋立事業の財源確保に邁進したのである(乙22号証)。企業経営の観点から,本件土地が朝鮮学校用地であることなどはいつの間にか無視され,ひとえに経済的利益のみが追求されて,上記のような賃料の一方的増額(相手方被告の実情を無視)がなされ,売却か用地返還かを相手方に迫る態様で財源確保が図られようとしたのである。この港湾局の,用地を効率よく処分することを自己目的にしたかのような経済合理性の追求が,被告の学校経営を危殆に瀕するところまで追い込んだのである。

()1968年4月の朝鮮大学校の認可

1972(昭和47)年に本件契約が成立した事情の中で最も重大で決定的なものは,1968(昭和43)年の美濃部東京都知事による朝鮮大学校の(各種学校としての)認可である。朝鮮大学校の認可申請はすでに,1966年4月になされたが,前述の1965(昭和40)年12月28日付文部事務次官通達のために手続が進行されずにたな晒しになっていたが,1968(昭和43)年4月17日,美濃部都知事は文部省や審議会の抵抗を排して認可をしたのである。美濃部都知事は,この朝鮮大学校の認可決定について,「憲法と法令と慣行に従って,知事の責任において決定する」(「東京都政50年史」通史257頁),「仮に通達と法律とが矛盾しあうならば,法律に従うべきであり,法律と憲法が矛盾している時は,憲法に従うべきであるというのが私の行政官としての判断である。」(「世界」1968年7月号「私の革新都政論」49頁)と述べてその画期的な決断を説明している。ここで美濃部都知事が憲法に言及しているのは,教育を受ける権利や学問の自由が基本的人権としてひとしく憲法によって保障されているとの認識を指すことが明らかである。朝鮮大学校の認可は,「朝鮮人学校は,わが国の社会にとって各種学校の地位を与える積極的意義を有するものとは認められないので,これを各種学校として認可すべきではない」とする文部事務次官通達を真正面から否定するだけでなく,前記の歴史的経緯の中で概観したような日本政府の朝鮮学校による民族教育への敵視政策とはまったく別に,民族教育を実施する朝鮮学校への積極的な支援の必要性を明確に表明したものであった。この都知事の判断がその後の都政だけでなく他の自治体に対しても,いかに影響したかは,前述のように,1970(昭和45)年から原告において,朝鮮学校に対する「私立学校教育研究助成金」の支出が始められたことを皮切りにして各地方自治体での助成金交付が広範に実施されるようになって行ったことからも優に知ることができる。この美濃部都知事の決断について,その後の動きを見れば,「在日朝鮮人にとって,『日韓条約』以来の,もっとつきつめていえば『日韓併合』以来の日本の行政機構の中で,“日本人の良心”の芽生えをかいまみる思いだったろう。」(「世界」1968年6月号143頁)と評されたのもあながち誇張とは言い切れない。別言すれば,要件を充足した申請を認可しただけのことが,これほどに大きなインパクトを持つこと自体が,日本政府の戦後の朝鮮学校や民族教育に対する政策のいびつさを示して余りあるというべきである。この朝鮮大学校の認可の意義は,朝鮮学校に対する禁圧・放置の段階から積極的支援の段階に至ったものと解される点にあり,これ以後の原告の施策の変化を解釈する場合の重要な要素となることに留意すべきである。

なお,美濃部都知事は,前記「私の革新都政論」でも自ら触れているように,朝鮮大学校の認可と同時に無認可保育所に対する財政援助を打ち出したが,これも朝鮮大学校の認可と「同様の性格」の問題としている。それまで無認可保育所はその実際の役割にもかかわらず,長い間,助成はもとより規制措置もなく放置されてきた。しかし児童福祉法2条は「国及び地方公共団体は,児童の保護者とともに,児童の心身ともに健やかに育成する責任を負う」とし,特に同法24条が保育に欠ける児童を保育所において保育することを市町村の責任と定め,「ただし,付近に保育所がない等やむを得ない事由があるときは,その他の適切な保護をしなければならない。」としていることからすれば,保育を受ける子どもの権利に着目すれば,無認可保育所において保育を受けざるを得ない場合についても公費支出によって自治体としての責務を履行することは当然の判断と言える。この無認可保育所に対する財政援助の決定は,その後も引き継がれ,現在では,認証保育所として原告の児童福祉政策の柱のひとつになっているのである。

美濃部都知事が朝鮮大学校の認可で示した朝鮮学校に対する支援は,助成金の支出によって一層具体化し,後戻りのない原告の政策となって今日に至っているものと解されるし,またすでに国際人権規約や子どもの権利条約等の発効をみた現在においては,朝鮮学校に対する国や自治体のあり方は,助成を通じた支援から,より積極的な「民族教育権の保障」をその責務として義務づける法規範が確立している状況にある。

3 1972年の本件契約の法的性質をどのように解すべきか。

()以上の本件契約の成立に関連する特徴的事情を踏まえて,1972(昭和47)年4月26日に締結された本件契約書(甲6号証)およびこの契約締結についての原告の決裁文書(甲5号証)を吟味すれば,原告と被告間には,民法の典型契約のひとつとして規定された使用貸借契約とは性質を異にした,特殊な無名契約としての「朝鮮学校用地無償貸付契約」が成立していることが客観的に認められる。

しかるに,原告は,本件契約を民法の使用貸借契約に過ぎないとして本件請求を根拠づける如くなので,前述の使用貸借契約の基本的な法的性質との関連で本件契約の特質を指摘することとする。

()本件契約は一時的・暫定的な目的からなされたものかどうか。

前述のように民法の使用貸借契約は一時的・暫定的なものであり長期の存続期間を予想せず,不当に長い存続を避けるための規定を定めているが,このような観点から見れば,本件契約が使用貸借契約とはまったく性質を異にしていることが客観的に明白である。甲5の決裁文書が,本件契約締結の理由として,被告の設置運営する東京朝鮮第二初中級学校が開設された歴史的経緯から説き起こしていることからも判然とするように,朝鮮学校の維持・存続を目的として原告において本件契約を締結したのである。これに対して,被告は1955(昭和30)年に学校法人の認可を受けて以来,本件土地を学校用地として朝鮮学校を運営し,1963(昭和38)年当時には,全部の用地の払下げ計画(被告理事会決議の会議録が払下申請書とともに原告に提出されている。)のもとに,新校舎敷地の280坪を原告から購入している。被告としては,在日朝鮮人子弟の教育事業の永続的な必要性を確信するがゆえに枝川地区住民とともに学校の維持発展に努め,新校舎を建築し,校舎敷地を購入したのである。原告は,長い間,被告らの努力に援助する意思もなく放置してきたが,1968(昭和43)年の朝鮮大学校の認可を契機にして朝鮮学校への補助金支給に踏み切り(1970年),朝鮮学校の維持・存続に積極的に関与するようになったのであり,朝鮮学校の永続性についての認識,すなわち本件契約の目的は両者で合致しているのである。

現に,1971(昭和46)年7月17日の要望書(乙23号証)において,被告が「在日朝鮮人子弟の教育のために校地使用料を無期限で無償にしていただくよう」要望したことについて,原告決裁文書からもわかるように,原告はこの要望を決して否定しておらず,「都における財産管理にかかる諸規程等から契約上使用貸借期間は一応20年間」としたに過ぎず,「しかしながら,期間満了の際になお学校用地として継続使用する必要がある場合は協議し善処したい。」と被告へ説明をしている。このことは,実質的に被告の設置する朝鮮学校の経営に不可欠な本件各土地を学校用地として学校存続の限り提供することの表明に他ならない。

()本件契約はもっぱら被告の利益のために好意的・恩恵的になされたものか。

民法の使用貸借契約は,個人間の信頼関係に基づいて借主の一方的利益にために好意としてなされることを想定するので,貸主としては,賃貸借契約のように借主に対して目的物を使用収益させるべき積極的な義務はなく(修繕義務もない),単に借主が目的物を使用収益するのを容認する消極的債務を負うに過ぎないと解されている。このことから使用貸借については,目的物に対する第三者の侵害の場合に借主が貸主の物権的請求権を代位行使することも認められないとされている。

ところが,本件契約は,上記のような類型的性質とは全く法的性質を異にしている。前述した経緯から明らかなように,本件契約を締結した原告の目的や表明された意図は,もっぱら被告の利益を恩恵的にはかるというものではなく,被告の運営する朝鮮学校の事業を積極的に支援することが原告にとっての法的責務であるとの強い認識に裏付けられているのである。

前述したように被告を財政的に追い込んだのは,埋立用地について港湾局が公営企業としての経済性の追求に邁進した結果であった。この港湾局の企業活動の根拠が「港湾局所管貸付地特別処理要綱」であった(甲5号証の決裁文書「添付書類」3,この要約を記したものが乙22号証)。原告は,本件契約にあたって,まず本件土地を上記要綱の適用対象から除外する決定を下している(甲5号証の文書2頁)。これは,本件土地が朝鮮学校の用地として使用されていることから,公営企業の事業用地の対象としてはならないとの判断によるものであり,朝鮮学校用地の維持・確保の必要性が公営企業の利益に勝るという法的責務の承認があってはじめて可能な判断というほかない。

また,前述の如く朝鮮大学校の認可をするにあたって,当時の美濃部都知事が憲法を引き合いに出し,同時に無認可保育所への財政援助(補助金支出)を同様な性格の問題と認識したことからも本件契約締結当時の原告の法的意識をうかがうことができる。すなわち,たまたま居住する場所付近に認可保育所がないということで,保育に欠ける子どもにとって適切な保育を受ける権利(市町村の保育責任)が無視されてはならず,このような子どもについて委託を受けて実際に保育を行っている無認可保育所に公金を支出して援助することは,児童福祉法24条の但書に基づく自治体としての法的責務の履行に他ならないのである。このことに対応して在日朝鮮人の子弟たる子どもについて言えばどういうことになるのか。日本人として生まれた子どもであれば公立小中学校で無償の普通義務教育が保障され,私立学校に入学した場合にも私学助成が手厚くなされるのに,たまたま在日朝鮮人の子どもとして生まれた場合には,親が子どもに朝鮮人としての成長と民族文化の継承を願い朝鮮学校に入学したら,全く権利保障を否定され一切の公的措置から見放されて当然ということになるのか。子どもが一個の人間として成長発達し,自己の人格を完成・実現するために必要な学習をする権利を有することからすれば,憲法26条の教育を受ける基本的人権が在日朝鮮人の子どもにも平等に保障されるべきである。前記の美濃部都知事の憲法への言及には,このような憲法上の自治体の法的責務についての含意があったことは間違いなく,少なくとも地方自治体行政上,在日朝鮮人の子どもたちへ民族教育を含めた学校教育を実施する朝鮮学校に対する法的責務についての強い認識があったことは疑いを容れない。

以上のように,本件契約は原告の被告への一方的な好意的目的からなされたものでは毛頭になく,原告の地方自治体としての朝鮮学校に対する法的責務の履行として,被告との間で合意されたものと言うべきである。

()従来の賃貸借契約を無償化するかたちで成立した本件契約は使用貸借契約に転化したものか。

本件契約は,1972(昭和47)年4月26日に締結されたものである(甲6号証)。それまでの本件各土地についての原告と被告との契約が賃貸借契約であったところ,原告は被告の前記要望を受けて無償貸付に応じたのである。原告は,このことから直ちに本件契約を使用貸借契約と解してその請求を理由づけている。果たして,それまでの有償の貸付契約(賃貸借契約)を無償にしたことは,原告がそれまで有していた土地賃貸借契約に基づく民法および借地法上の権利を存続期間や第三者への対抗の保障が予定されていない使用貸借契約の如きものに弱化する目的や意図から出たものであろうか。この点についても,原告の本訴請求の認識と客観的事態はまったく逆である。

前述のように,本件各土地については,本件契約の前に,1969(昭和44)年8月15日の貸付契約(乙20号証の5)および1970(昭和45)年11月2日の貸付契約(乙20号証の6)が先行して締結されていた。この賃料の総額はそれぞれ125万8,404円,291万1,764円であり,被告はいずれも事実上支払い不能の状況に追いこまれていた。ところが,本件契約は,従来の有償契約を無償にしただけでなく,上記乙20号証の5の契約の適用開始日である1970(昭和45)年4月1日に遡及して適用したものである。このことは,本件契約が,すでに発生していた1970(昭和45)年4月1日以降の被告の賃料債務(地方公営企業にあっては企業会計に即して発生主義を採用している。)を免除する法的効果を生じさせることになる。このことは,1970(昭和45)年から原告が朝鮮学校に対する補助金支給を開始したことと整合し,原告の朝鮮学校に対する積極的な財政支援(もとより私学助成に比すべくもないほど未だ微弱ではあるが)の一環として本件契約が締結されたことを示すものである(適用が遡及されたのは,契約の空白期間を埋めるものではない。)。これは,すでに繰り返し述べたように,朝鮮学校に対する公的補助であり,公的補助が公益上の必要から,特定の事業を促進・助成するために行われる(地方自治法232条の2)ことからすれば,本件契約の目的とするものは,被告朝鮮学校の経営基盤の弱体化をはかるものとは全く逆に,朝鮮学校用地としての法的安定性を一層強固なものにする目的からなされたものと解することが最も合理的である。校舎を新築し,その敷地を購入までしている被告においては,もとより本件土地の使用条件を法的保障の弱いものにする意思などあり得るはずもない。

4 本件契約は無名契約たる「朝鮮学校用地無償貸付契約」と解すべきであり,民法の使用貸借契約ではない。

()上述のように,使用貸借契約の基本的な法的性質との関連で本件契約の特質を具体的事実に即して述べたが,これらの特質を客観的合意内容に含む本件契約が,もはや民法の典型契約のひとつである使用貸借契約とは全く異なるものとして成立したことが明らかである。本件契約は,歴史的経緯の中で成立した特殊無名契約である「朝鮮学校用地無償貸付契約」と解すべきである。前記のとおり,1968(昭和43)年の朝鮮大学校認可に示された原告知事の認識や朝鮮学校への助成金の支出(これは今日まで引き続き実施されている。)と本件契約は一連の原告の目的・方策から導かれたものであり,無償契約という性質は,それまでの賃貸借契約の使用貸借への転化ではなく,まったく逆に,朝鮮学校経営に不可欠な本件用地についての被告の法的権利を一層強固なものにすることによって朝鮮学校経営に対する助成をはかったものである。本件契約の解釈は,このような実質や実態に即してなされなければならない。

(2)以上の検討結果を踏まえれば,本件契約は,被告の経営する朝鮮学校(現在,東京第二朝鮮初級学校)の存続する限り,無償でその使用を保障したものと解すべきであり,契約自体の目的からすれば,被告の権利は土地賃貸借契約上の権利よりも保障の程度が強固なものと言うべきである。本件の原告の主張との関連でいえば,20年の期間は明らかに例文であって別途の合意がなされない限りはその法的効力の存続が保障されているのである。仮に20年を期間としても,本件契約の目的と性質からすれば,契約の自動更新の合意が契約内容として含まれていると解される(旧借地法4条,6条参照)。

本件契約を単純に民法の使用貸借契約に過ぎないとする原告の主張は明らかに失当である。

 

五 使用貸借契約に基づく占有権原

1 仮に,本件において上記無名契約の成立による占有権原が認められない場合であっても,被告は本件各土地について現時点においても使用貸借契約に基づく占有権原を有している。

2 すなわち,1972(昭和47)年4月26日に成立した本件契約にあっては,契約書(甲6号証)上,貸借期間を20年とし(第3条),期間経過後は原状回復することを定めた条項(第9条)があるが,これは単に20年の貸借期間経過により原告から被告に対し本件各土地の払下げ又は賃料の改定の交渉をするきっかけとするために,その交渉開始の目安として設定されたものであって,1971(昭和46)年に契約を締結した当時の当事者間の意思としては,20年の経過により当然に貸借関係を終了させる意思は全くなかったものである。したがって,上記の各条項は使用貸借契約という形式を採用したことにより例文として置かれたものにすぎず,無効である。

3 具体的に根拠づけると,既に見てきたように,まず,本件契約の満了期限である1990(平成2)年3月31日前あるいはその後において,原告が被告に対して契約終了に伴い本件各土地を返還するように催告したことは,一切なく,反対に原告が被告に対し本件各土地の買い取りを要望し,その交渉をしていたのであって,原告としても契約期間満了により直ちに第9条に基づいて土地の返還ないし原状回復を求め得るとの認識もそのような意図も,全くなかったのである。

4 遡るに,本件契約の締結の過程で作成された甲5号証の「案の1」(この内容は,被告に対してそのままの内容で通知されたと考えられるので,原告の被告に対する意思表示の一部をなしていると言える。)によると,契約の存続期間を定めるに当たっては,「都における財産管理にかかる諸規程等から契約上使用貸借期間は一応20年間とします。しかしながら,期間満了の際になお学校敷地として継続使用する必要がある場合は協議し善処したい。」とされていたのであり,本件当事者間に無期限の契約更新ないし延長の合意が成立していたものである。

5 既に見てきたように,本件契約は,原告から同契約前に払下げを受けた土地上に建築されている校舎,すなわち被告の経営にかかる東京朝鮮第二初級学校(学校教育法上の小学校に該当する教育を行っているものであるが,上記四で述べたように,日本政府の民族教育敵視政策により私立学校としての認可を取得し得ないので,各種学校であり,学校教育法上は小学校の扱いとはなっていない。本件契約当時には中級学校も併設されていた。)の校庭用地として本件各土地を被告に使用させるために締結されたものである。

6 原告は,東京朝鮮第二初級学校の存在と事業内容を認可官庁あるいは土地売買契約当事者として知悉しており,その存在を前提として本件契約を締結していたことは明白である。そうであれば,学校教育法3条に基づく小学校設置基準(現行法による。運動場の面積は,最低でも2400平方メートル以上であること,校舎と同一の敷地内又は隣接する位置に設けることが第8条で定められている。)を見るまでもなく,本件契約の真実の契約期間は,およそ学校がその当時の所在地に存続する限り(あるいは,当該所在地において小学校課程の教育をなすという目的が終了するまで)であると解するのが契約当事者の合理的意思解釈と言える。

7 この当事者の意思は,原告の挙動によっても十分確認することができる。すなわち,本件各土地に挟まれる中間の位置には,道路敷地として指定を受けている原告所有の土地があるが,原告の主張(訴状第3の5)によれば,被告には1964(昭和39)年の新校舎建設により外形的にもきわめて明白に(使用貸借の権原すらなく)不法占拠していたことになるはずである。しかしながら,原告は,1963(昭和38)年にこの新校舎建設について建設の許可を与えると同時に新校舎のほぼ真下部分につき,原告所有の土地を売買契約により払下げているのであるし,この占有状態を承知の上で1972(昭和47)年に本件契約を締結しているのである。いわば,都はわざわざ被告による不法占拠状態を作り出し,さらにそれを維持強化してきたということになるのである。実際,この姿勢が少なくとも平成3年時点でも維持されていたことは間違いない。(乙26号証の5項)

8 また,前記のように,使用貸借期限が満了した後本件各土地について売買(払下)交渉をしていた際に,原告は,被告に対し,従前の使用貸借契約の期限満了(1990(平成2)年3月31日)以後売買契約締結までの間の本件各土地の使用権原に関し,本件各土地の売買契約締結時において別途使用貸借期間を延伸する変更契約を締結すると文書で表明しており,形式上期限満了に伴って終了・消滅したはずの使用借権という占有権原が,不法占拠状態であるはずの時点から遡及して認められることになっていたのである。したがって,当事者間で使用貸借契約の期間満了後売買契約の締結時までは,本件各土地の占有権原として使用貸借を認める,あるいは少なくとも土地の使用料相当損害金については請求しない,もしくは免除するとの合意ができていたことは疑い得ない。

9 さらに,最近の話であるが,原告の主張によれば被告が本件各土地を不法占拠して久しいことになる1997(平成9)年4月には,被告設置にかかる学校について,当初初中級部併設であったものが中級部の廃止により,初級部の単設校となっているが,これにともなう寄附行為の改正(私立学校法30条1項3号,45条)を原告が認可しているのである。もちろん,訴状第3の4記載の監査請求がされるまでは,原告から不法占有を理由として立ち退きを求められたことも,使用損害金として賃料相当額を請求されたことさえ一切なかった。

10 以上の事実に照らせば,原告において被告が本件各土地等を不法占拠していたとの認識は微塵もなかったことが明らかである。本件当事者の認識としては,(前記無名契約の成立が認められる場合を除いて)1990(平成2)年4月1日以降も1970(昭和45)年の使用貸借契約が継続しているということにほかならない。

11 仙台高判昭和51年12月8日(判例タイムズ349号228頁,法律時報51巻8号121頁)においても,建物所有を目的とした土地使用貸借契約において使用期間を約10年間後の日付で明確に定めていた事案で,当該「期間を経過した場合には,本件建物の保存状態等にてらし,本件係争地の使用について当事者が協議する機会を設けた程度のものと解するのが相当」と述べて,収去明渡請求を棄却している。

12 ちなみに,使用貸借契約は,一般に無償契約であるため借主の立場がきわめて脆弱な契約類型であるととらえられているが,このような考え方は皮相である。

13 すなわち,無償の貸借関係が設定された場合であっても,それが人的関係を基礎とした情誼に基づく全くの善意の恩恵的行為であるとは限らず,当該契約を締結するに至った経緯ないし当事者の目的から様々な類型が考えられるのである。

14 本件では,無償貸借に至った動機としては,当時国家レベルでは弾圧の対象でさえあった(今日でも積極的な意義すら与えられていないが)ところ,原告は地方自治体独自の見識により,民族教育の重要性と権利性を認識し,これを保障しようとはかったのである。もっとも,国家レベルで上記のような状態であったから,地方自治体たる原告が,大がかりな私学助成制度を創設するわけにも行かず,せめて土地の賃借料程度は免除することによりささやかな地方自治体レベルの民族教育助成あるいは私学助成をはかろうとして選択したのが本件使用貸借という類型である。したがって,それまでは多額の賃料を徴収していた原告が,被告の要望(乙23号証)に応じて,これを助成する意図から賃料を免除するに至ったわけであるから,むしろ被告の事業の価値をより積極的に評価し,これを維持強化しようとの意図に出たものであって,決してそれまでの賃貸借契約の場合よりも被告の法的地位を不安定ならしめようとしたものではないという点を見逃してはならない。

15 貸借の期間を設定したのも,単に自治体の普通財産として貸借する以上,あまりにも長期なものは原則的に認められないという事務規定等に配慮してそのような記載を契約書上選択したにすぎないのであって,上記の契約締結の動機に照らせば,本件使用貸借契約は,払下げや賃貸借への切替えといった特段の事情がない限り更新されることが予定されていたと考えられるのである。

16 その後,1979(昭和54)年に日本においても発効した国際人権規約自由権規約27条は,民族的マイノリティーの権利として「その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し,(中略)又は自己の言語を使用する権利を否定されない」と規定しているが(1994年に発効した子どもの権利に関する条約30条も同様。社会権規約13条3項4項においても,自由な教育機関の設立と子どもの保護者による私学教育の自由な選択が保障されている。),こうした状況の変化によって1972(昭和47)年時点の原告の見識がむしろ正しかったことが証明されているのであり,教育という事業の永続性という点に照らせば,原告が一定期間を限って土地を使用させる意図であると考える根拠がむしろ乏しいと言わざるを得ない。

17 よって,原告による本件各請求はいずれも理由がなく,棄却されるべきである。

 

六 信義則違反・権利濫用

1 さらに仮に,前記使用貸借契約が契約書記載どおり20年の経過により終了したとしても,本件請求は,以下の理由により信義則違反及び権利濫用である。

2 まず,五で詳細に述べたように,原告の挙動としては,訴状記載の監査請求が出るまでは,1990(平成2)年の使用貸借契約期間満了以後13年にもわたって被告に対して不法占拠であるとの見解を表明したり,土地の明渡請求をするなどの行為を一切とっていないばかりか,逆に被告との間で土地の払下げ交渉をねばり強く続け,その間にも被告学校が初中級の併設校から初級の単設校に切替える際にも寄附行為の改正を認可するなど,むしろ被告が被告学校を経営することを積極的に応援さえしてきたものである。この経過からすれば,さしたる理由もなくいきなり不法占拠につき建物収去土地明渡及び使用貸借期間満了時までさかのぼった賃料相当損害金の支払いを求めることは,契約当事者間の信義に著しく反する結果となることは明らかである。

3 また,本件請求は,原告自身が払い下げた土地上に大部分がある校舎のごく一部についてだけ収去請求をなすものであることに加え,収去請求にかかる建物部分は,校舎の入口・職員室を含んでおり,この部分のみを収去すれば,建物の校舎としての効用を著しく害することが明らかである。このことは,本件請求では掲げられていないが,本件各土地の間にある原告所有の道路敷地部分について請求を認めた場合に,校舎が2分されることを考えればなお一層明らかになるのである。

4 さらに,被告は,本件各土地において戦前から日本に居住する朝鮮人子弟のために民族教育及び普通教育を行ってきたが,既に1965(昭和40)年文部省事務次官通達等に見たように,日本政府は,在日朝鮮人の教育を受ける権利を戦後一貫して否定し,学校教育法1条校としてはおろか専修学校としてさえ認可せず(各種学校としての認可についてさえも公然と否定している),私学助成さえも完全に拒んでいるものであって,このことは国籍にかかわらず在日朝鮮人子弟が民族教育及び普通教育を受ける権利を根底から否定するものである。本件請求を認容することは,少なくともこの枝川という在日朝鮮人集住地区において在日朝鮮人子弟が民族教育と普通教育における小学校の課程の教育を受ける権利を突然全面的に剥奪することになるのは間違いなく,したがって本件請求がそのような効果を結果することは明らかである。また,前述したように,原告は1970(昭和45)年以来,朝鮮学校に対する補助金の支出を私学助成と比較して微弱ながら今日まで実施している。補助金の支出は,朝鮮学校の教育事業を促進・助成することにほかならず,一方で助成の措置をとりながら,他方で被告学校の基盤である本件学校用地の明け渡しを請求するという如きは,行政意思の分裂ともいうべき所業と言わざるを得ない。

5 甲5号証の記載や本件使用貸借成立に至る経過及び期間満了後の経過によれば,使用貸借関係が終了したとしても,その後には,土地の払下げあるいは賃貸借への切り替え又は使用貸借の継続といった選択のうち,いずれを選択するかについては,当事者が誠実に協議すべきことが合意されていたものであり,当該協議がなされるべき期間は使用貸借契約が自動的に延長ないし更新されるか,少なくとも使用借権者としては,不法占拠との非難を受けたり使用料相当損害金の請求などは受けないというべきであり,土地明渡請求や賃料相当損害金の請求などは信義則違反ないし権利濫用に当たると言うべきである。

6 現実に,本件当事者は,最近に至るまでこの誠実協議義務に従って実際に協議を重ねてきたところであるが,この間協議が決裂したことはなく,原告から原状回復を請求されたことはないし,地代相当損害金の請求を受けたこともなかった。

7 しかるに,原告は,監査請求を受け,監査意見が出た途端に態度を急変させ,いきなり長期の不法占拠だとして本件提訴に及んだものであって,この経過については被告側に何らの落ち度も誠実さに欠ける点もなかった。

8 以上のような事情のもとでは,原告の請求はいずれも信義則違反ないし権利の濫用であって,本請求は棄却されるべきである。              

以上

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